〜Story〜
〜Aim for fastest・・・〜
〜最速を目指して・・・〜
飛行機の登場以来、シュナイダーカップやトンプソンカップ等、様々なエアレースが行われていた。第一次世界大戦や第二次世界大戦などにより、中断を余儀なくされることもあったが、戦争が終われば再び復活しする。そして戦後、エアレースに参加するレース機の中に、かつて蒼空の戦場を駆け抜けた戦闘機達が第二の人生を歩んでいる。
さて、第二次世界大戦以後FAI(※7)の世界最速はレシプロ機からジェット機に変わるわけだが、それ以前、第二次世界大戦前におけるレシプロ機世界最速記録(つまり世界最速記録)はドイツのフリッツ・ウェンデルのメッサーシュミットMe109R(※8)が1939年4月26日に記録した469.22mph(755.12Km/h)である。戦後、ジェット機が次々世界最速の記録を更新してい� ��中で、レシプロ機の最速記録も着々と更新されていた。これはレシプロ最速を目指し、塗り替えていったベアキャットの物語である・・・
〜新たなる舞台の復活〜
○第二次世界大戦後、アメリカでかつて人気のあったエアレースが復活、参加する飛行機に制限のないアンリミテッド・エアレース(トンプソンカップ)等も復活したが、そこに登場した機体達は第二次世界大戦終結により余剰となり、サープラス品として民間に払い下げられたレシプロ戦闘機達だった。主に払い下げられた機体はベルP-39エアラコブラ、P-63キングコブラ、リパブリックP-47サンダーボルト、ロッキードP-38ライトニング、ノースアメリカンP-51ムスタング、グッドイヤーFG-1コルセアなどで、当時米海軍の主力であり、輸出兵器としての価値が高く、数も多くないことから、当然F8Fは民間に払い下げられる訳がなく、そうなるのはアメリカ海軍、フランス海軍やタイ空軍での運用後、それぞれから軍役を解かれる50年代も後 半になってからのことである。F8Fがこの舞台に立つことになるのはまだ先のことである。
さて、レースに参加したパイロット達の中には払い下げ状態の機体では満足せずに改造して参加した者達もいた。改造機達が出す速度にはMe109Rの速度記録更新の夢を抱かせたものもあったが、最初に挑戦したのはアンソン・ジョンソンとP-51Dだった。
彼は戦後再開されたトンプソンカップの第3回となる1948年のレースに参加した。このときの改造はエンジンをデ・ハビラントD.H98モスキート用のパッカード・マーリンV-1650-225(※9)(1段2速過給器装備)に換装、ADI(水メタノール噴射装置)を追加、主翼端を2ft(約60cm)切断すると言ったところだった。この年のレースでこの機体は優勝を飾るが、このときのレースはライバル機の不調にも助けられた幸運にもよる勝利だった。この勝利をより確実の物とするために更に 大改造を施す。しかし、翌年のレースでは不調によりレースからは脱落、更にトンプソンカップの継続は中止せざるを得なくなってしまう。
改造機として実力を発揮する場を失ったジョンソンはドイツが保持する世界速度記録に挑戦することにした。アメリカン・エアモーティブ社など計3社のスポンサーを見つけたジョンソンは、1952年6月6日、フロリダ州のキービスケーンで挑戦を行う。だが、このとき記録を行うNAA側の不手際など(※10)から、記録は成立しなかった。責任を感じたNAAは再度の測定を無料で行うと申し入れを行ったが残念ながら彼に挑戦のチャンスは訪れることはなかった。彼の機のエンジンは記録挑戦後、オーバーホール中に何故か紛失、スポンサーも失ったからだった。失意に陥った彼は機体を手放し、不運の機体は幾人かの手を経て、コネチカット州ニューイングランド航空博物館の所蔵となっている。
〜挑戦への始まり〜
エデンの島に住んでいる人々
○アンソン・ジョンソンが1952年の記録更新に失敗した後、しばらく記録更新への試みは途絶えてしまった。エアレースも行われていない状況が続いていたが、1964年、リノに於いてナショナル・エアレースが復活する。再び第二次世界大戦のレシプロ戦闘機達がスピードを競う舞台がよみがえり、スピードに魅入られた男達が集まってきた。その中の一人がダリル・グリーネマイヤーで、そして彼の駆る機体こそF8F-2(N111L Bu.No.121646/VF-62)だった。彼もまた、他にもいたであろうスピードの向上のためには努力を惜しまないタイプで、1964年の最初のレース時からささやかな改造を施し、レースに臨んだ。
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Photo:Frank B.Mormillo |
ダリル・グリーネマイヤーのF8F-2(N111L)。64年出場時には既にキャノピーに手が加えられていたため、写真はそれ以前の物である。 |
しかし、その改造が災いして、勝利をつかむも規定違反となり失格となった。
捲土重来を期した彼は機体とエンジンに大改造を加え、翌65年から69年までリノ・アンリミテッド・エアレースに於いて5回の優勝連続制覇を達成する。
彼の利点は、彼がロッキード社の先端技術集団"スカンクワークス"のテストパイロットで、同僚のエンジニアから助力を得ることが出来たことであった。64年のレース後、彼は後にスカンクワークスを率いるクラレンス・ケリー・ジョンソンの後継者となるベン・リッチと言う高名な技術者に助力を依頼するが、彼は自らの代わりにピート・ロウを紹介、ピートもF8Fには不慣れだったため、ブルース・ボーランドを仲間に引き込んだ。この二人は以後のアメリカンレーサーの技術向上� �寄与することになる。二人の助力を得たダリルにとっての夢は最早リノでの優勝ではなく、約30年近くにわたって保持されてきたMe109Rの記録を打ち破り、レシプロ最速のタイトルを獲得することだった。
〜世界速度記録への改造〜
○ピート・ロウとブルース・ボーランドの助力を得たダリル・グリーネマイヤーの世界速度記録挑戦は1966年になってから始まった。
機体は1965年に予定の改造をほぼ終わっていた。改造の主眼となったのは重量軽減、抵抗の減少、牽引力向上を含めた馬力アップであった。
まず、重量軽減に於いて、185gal入りの操縦席下の胴体自動防漏式燃料パックが取り除かれ、この空間はシーラントで密閉されてインテグラル・タンクとなり、大陸横断レースに向けて燃料搭載量を310galとされた。
油圧系統は主脚引き込み脚用シリンダーを除いて削除し、主脚の引き込みに関しては高圧(1900psi/134Kg/cu)窒素で行うとされ、窒素は小型ボトル(直径約12.7cm、長さ約50cm)に収容された。収容に要する時間は5秒以内で、脚を出すときはロックを外し、機体を振り、その重力を利用して下げ、下げ位置にロックさせる。電気系統も削除され、脚引き込み確認ライトと携帯式無線機の動力には15Vの乾電池が操縦席内に搭載された。また、補助燃料ポンプは手動式ポンプに変更され、エンジンスタートは外部動力に頼った。
抵抗軽減には、まず主翼両端を切断、ロッキード社の空力エンジニア、メル・キャシディが設計した翼端を装着、全幅を10.85mから8.68mへと短くした。主翼前縁胴体近くに空いている潤滑油冷却用クーラーとキャブレターの空気取り入れ口はエンジン・カウリング内へ移動したが、潤滑油用クーラーは胴体内の水/アルコール・タンクのボイラー内に浸され、熱で液体を蒸発させるが、これらの液体は発動機のデトネーション防止にも使用された。
風防はF1レーサーの物を採用、小型化され、フラップは固定されてフラップのヒンジは削除、舷面の布は金属板に交換された。また、着艦フック収容部は覆われ、機尾は延長された。
中国人は彼らの自己何と呼ぶん。
エンジンはP&W R-2800-30Wから-83に換装されたが、実際は各種型式部品の構成で、減速器部分は減速比.35:1の-44Wで、ダグラスADスカイレーダーの直径4.1mの4翅プロペラを回して高推進力を得られる。だが、これでは水平姿勢のときにプロペラ先端が地面に接触してしまうので離着陸は機首を高くあげた3点姿勢で行わなければならなくなった。そして、プロペラスピナーはP-51Hムスタングのスピナーが取り付けられ、カウリング後上のカウルフラップもわずかな隙間を残して閉ざされた。
〜世界速度記録への挑戦、そして・・・〜
Photo:Michael O'LEARY |
○1939年にMe109Rが出した記録を更新したコンクエストI。 |
○初挑戦となる1966年は、カリフォルニア州ランカスター近くのフォックスフィールドに3Kmを設定して行われた。このとき機体は更に改造が加えられていた。垂直尾翼の高さが1ft(30cm)縮められ、昇降舵/方向舵の隙間減少手段も改良され、機体全体が隙間を埋められ塗装・磨き立てられた。目に見えない部分ではボイラーの変更、、潤滑油クーラーの2個化、エンジンのスーパーチャージャーがDC-6用のCB-17型となりで出力が2,500hpに向上した。この状態で5月28日に挑戦が行われたが、ダリルは2回飛行したところで着陸する。横安定性が悪化し、高速で横滑りが激しくなり、ロールをし始め制御不能になったためで、垂直尾翼の高さの減少は失敗だった。
第2回の挑戦は翌々年の1968年、リノ・エアレースも前に行うことになり、ドワーズ空軍基地に記録コースが設定された。一昨年の状態と比較すると、標準型の垂直尾翼を付け換え、主翼後縁と胴体の付け根にフィレットが設けられ、水とニトロメタン噴射装置が搭載された。挑戦飛行は8月24日に行われたが、4回の平均速度は447.5mphと記録更新にいたらなかった。その日、2度の飛行が行われたが記録不成立やエンジンがかからないなどのトラブルでくれてしまった・・・
翌日は1回目の飛行で498mphを出して期待をさせたが、ピストンの一つが焼き付いた。基地に帰って2つのピストンとシリンダーを交換、再挑戦に備えたが今度はエンジンが短時間のテスト運転でストップし、発動機一式の交換が必要になってしまった。
境界線なしでどのようにオーストラリアは、医師をサポートしていません
年が明けて1969年8月、リノの1ヶ月前に3度目の挑戦が再びエドワーズ空軍基地で行われた。
"コンクエストI"と名付けられた機体は緩やかな円を描くヒレを付け、根元の面積が大きくなった新製作の垂直尾翼を付けていた。胴体関係では、エンジンの高温の排気が主翼後縁の広範囲に悪影響を及ぼすので排気管を延長して排気の流れを改善し、その上にカバーを付けた。また、この排気熱は胴体構造にも有害であったので排気流に沿って長さ5ft(約1.5m)のステンレス・スティール板が胴体に張り付けられたが、その後ろの胴体では白い塗装が火脹れとなった。目に見えない部分では、胴体内のインテグラル・タンクは油漏れに悩まされていたが、アルミ溶接タンクが3個が装着されて問題解決した。そして、破損したエンジンはDC- 6のCB-17型にほぼ交換された。
8月16日、エドワーズ空軍基地では約300人が砂漠の華氏100℃(37℃)の熱気に包まれながら見守っていた。そんな中を垂直尾翼に星条旗を描いた"コンクエストI"は高度約90mで飛翔した。
コクピット内部は熱く、脚には火傷を防ぐためにエスキモーが愛用する長靴マクラクを履き、手袋をしてスロットルを握るが、それでも暑い。そのため、更に胸にアイスパックをくくりつけ、手も冷やした。コクピットにはエンジンの排気やボイラーの臭気も入ってくる。酸素マスクは外せない。ダリルはこの難行に耐え抜き、飛行を終えた・・・
この日の第1回目の飛行は昼前に行われ、油圧に問題が生じていたものの475mphを出して記録更新の条件に合うことが出来た。しかしダリルはこれに満足せず、再挑 戦を行う。第2回目は午後3時38分に離陸、25分以内に4回の飛行を行った。最高速度は追い風状態の510mph、最低速度は逆風状態の454mphだったが、FAIの記録は482.463mph(776.449Km/h)とされ、見事にMe109Rの記録を更新した。実に30年ぶりの記録更新だった。最高速度時のエンジン出力は3,200hp/3,000rpmだったという。
記録を更新したダリル・グリーネマイヤーには旧記録保持者であるフリッツ・ウェンデルから祝電が送られ、1970年のSETP(※11)総会からフライトテストで最も航空界に貢献した人物に贈られるキンチェロー賞をウェンデルの手から受賞、FAIからもポール・ティサンディエ賞を贈られた。
その後、F8F-2"コンクエストI"は数回のレースに出場後、国立航空宇宙博物館に寄贈、ワシントンで展示された後、シルバーヒルのポール E.バーガー施設の所蔵となる。
〜ムスタング"レッドバロン"の記録奪取と新たなる挑戦者〜
○グリーネマイヤーの記録は10年続いた。彼の記録に挑戦したのはアイダホのポテト王 エド・ブラウニングと、P-51ムスタングだった。彼のP-51はエンジンをマーリンからグリフォンに積み換え、二重反転プロペラなど取り付ける改造をした。パイロットはスティーブ・ヒントンを選んだ。改造した機体の名称はRB-51"レッドバロン"。ヒントンはこの3,000hpの怪物機を操り、見事期待に応えて1979年8月14日、499.047mph(803.138Km/h)を記録、夢の500mphこそ実現できなかったが、初めてレシプロ機が800Km/hの大台を突破し、ダリルの記録を更新したのである。
しかし、その栄光もつかの間、翌9月にリノでの凱旋レース中にエンジントラブルを起こし墜落、機体は失われた・・・
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Photo:Michael O'LEARY |
○初飛行から一週間後にリノ・エアレースに出場したライル・シェルトンのF8F-2。当時は"Able Cat"と言う名前だった。その後、幾度かの改造と名前の変遷の末、後に究極の"レアベア"になる。 |
F8Fが樹立した世界速度記録をP-51が破ったが、その記録を破ったのはまたしてもF8Fだった。今度の挑戦者はライル・シェルトンである。
彼は海軍パイロットだったが、1964年、偶然なことからエア・レーシングの世界にとりつかれた。まず、レースクルーの一人として参加、ついでパイロットとしてレーサーを飛ばさせてもらったが、やはり自分の機体が必要であると思い、探求する。そんな最中、1969年にインディアナ州パライソで1962年に事故にあったF8F-2を発見、入手する。
彼が手に入れたのは胴体、翼の中央部、降着装置、右翼パネルというジャンク状態だったが、オレンジ・カウンティに於いて復元作業が行われる。ボランティアの助けもあってわずか7ヶ月で完了し、1969年9月13日には初飛行が行われ、その1週� ��後にリノに"エイブルキャット"と言う名前で出場した。この当時の機体(N777L, Bu.No.122619)は一見標準型のF8Fに見えるが、その最大の相違点はエンジンがR-2800-30WからB-29が搭載したことで有名なライトR-3350"デュプレクス・サイクロン"が搭載されていたことであった。実際はADスカイレーダー用のR-3350-24で、プロペラとスピナーはDC-7の物である。
レースは準備不足もあって5位に終わったが、その後機体とエンジンには次々と手が加えられていき、1971年には現在の状態に近くなっていた。実力の一端は1972年2月にカリフォルニア州で高度3,000mに91.9秒で達し、新記録を樹立する。
だが、ライルが世界記録に挑戦するのはずっと後の1989年になってのことである。彼は1976年〜79年までモハービ・エアレースの運営に携わっており、レーシングはお休みの状態だった。
〜レアベアの記録奪回〜
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Photo:Nomata Yoshihisa |
○RB-51"レッドバロン"から速度記録を再びベアキャットのものとしたレアベア。記録更新時にはこのような4翅プロペラをつけていた。 |
○1980年になって、ライルは機体を格納庫から引っぱり出し、"レアベア"と言う名前で再度レーシングに備えて調整と改良作業にはいるが、資金不足から進捗状況は良くなかった。だが、86年にウイチタ・エアサービスのジャック・デボアと言うスポンサーが見つかり、作業は87年に完成した。そして、翌年から91年までのリノのチャンピオンシップを連続制覇した。
記録への挑戦はこの連勝の上り坂の出だしで行われた。89年8月、リノの数週間前にニューメキシコ州ラスベガス(※12)近くに3Kmのコースが設定された。高標高と低温度は記録樹立にはもってこいの条件である。8月20日、レアベアは平均516mphを出し、夢の500mphを突破する。だがライルはなお可能性があると信じ、翌21日に再挑戦する。
今度は52 3.586mph、537.251mph、520.257mph、532.223mphを出して新記録を樹立した。FAIの記録は528.33mph(850.25Km/h)、3,800hpと書かれている。この"レアベア"も"コンクエストI"と同じくかなりの改造が施されている。エンジン・プロペラスピナーは先述の通りだが、主翼両端は切断され、全幅は9.27mに減少、フラップも固定されている。風防も抵抗の少ない形状となり、その前後の胴体上面が滑らかに整形され、着艦フックは削除、機微も突き出している。エンジンカウリングは88年にDC-7Cのものとなり、エンジンは当然ながら特別にチューニングされた物で、水/アルコールに加えてNOx噴射のADIも装備されている。
Photo:Michael O'LEARY |
○1994年3月に撮影されたレアベア。現在はこのカラーとなっている。 |
その後、レアベアは91年にリノ・ゴールドレースで、パイロンを旋回して楕円のコースを飛ぶ周回飛行でありながら、直線コースを飛んだMe109Rの469.22mph(755.12Km/h)を超える平均速度481.618mph(775.07Km/h)と言う輝かしいコースレコードを記録している。
※7・FAI=国際航空連盟
※8・Me109R=正確には(旧)Me209の事。(旧)Me209はV1〜V4まで製作されている。
記録を出したのは(旧)Me209 1号機(Me209V1)。(旧)と書いてあるのは察すればわかるように(新)Me209があると言うこと。
(新)Me209は1944年に試作された機体で、(旧)Me209とは全く別設計の別機である。因みに(新)Me209はメッサーシュミットBf109の構成パーツの60%を利用して作ることになっており、また、Bf109の根本的問題である外方向引き込み脚などの問題も解決している型であった。しかし、Fw190Dの方が性能が似ていながら改造度合いが少ないことから、(新)Me209は採用されずに終わっている。また、ドイツは第二次世界大戦が始まると(旧)Me209を実用戦闘機にしようとした。レーサー機であることを知りながら・・・
当然の事ながら物にならずに終わっている。
なお、ここでは敢えてMe109Rと言う名称のままで書いている。そこのところはご了承い� ��だきたい。
※9・パッカード・マーリン=R&R(ロールスロイス)マーリンエンジンのアメリカにおけるライセンス生産版。アメリカ軍が使用するP-40F/L、P-51B/C/D/F/G/H/K等の他、イギリス軍のスピットファイアMk.XVIにも使われている。
※10・NAAの不手際=このとき記録は当初午前5時30分という朝のクールな空気で条件のいい状態でに行うはずだったが、NAA(アメリカ航空協会)が記録の準備に手間取り、3時間以上を要した。
更に翌日の記録では設置した記録器の内、コース南端に設置されていた記録器は3回分しかフィルムに記録されていなかった。
※11・SETP=実験機パイロット協会
※12・当然の事ながらカジノで有名なラスベガスのことではない。カジノのラスベガスはネヴァダ州にある。
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